代表取締役 西部英(にしべすぐる)のプロフィール

1982年4月  関西大学社会学部入学

中学入学時背が低かったので何とか背が伸びないかと中高の6年間、無謀にもバレーボール部に所属し、あまり勉強しなかったので、周囲の予想通り、一浪の末、何とか関大社会学部に合格しました。(経済学部も受けていたのにそちらは不合格でしたので、皮一枚でつながった感じです)

社会学部を選んだのはそれまでに読んでいた大谷博子さんという漫画家のコミックスを読んでいた影響で社会福祉を学んでみたくなったからです。

とは言うものの、入学後は勉学よりもアルバイトの楽しさに目覚め、10種類程のアルバイトをしました。

実は小6の時にそろばん塾で指導員をして先生からお小遣いをもらう喜びを知っていたので、大学に行くまでにも商店街のうなぎ屋で土用の丑の日だけのウナギの蒲焼の販売、夏休み・冬休みの間は某百貨店のお歳暮・お中元を自転車に積んで各家庭に配達、春休みには製缶工場の夜勤でジュースやフルーツ缶詰用の缶がベルトコンベアに乗ってドンドン流れて来る中から凹みや汚れがある物をピックアップする作業で稼いでいました。

大学生になってからは、うどんレストランでは皿洗いから始まり、うどん粉からうどんを作るので食塩を入れて機械でよくコネ、ビニール袋に入れて足で踏んでコシを出し、暫く寝かせてからロールで伸ばして裁断機で切る作業をし、空いた時間では天婦羅を揚げたり、定食を作ったりしたので一通り食事を作れるようになりましたが、短期間で運転免許を取る為に能登半島の方まで合宿に行く事にしたので、半年ほどで辞めました。

次は大学の友人の紹介でホテルのベルボーイのアルバイトを始めました。

お客様がホテルに着いたら荷物を持ってフロントまで案内し、チェックインが済むと部屋まで案内するのが主な仕事ですが、外国人や新婚旅行のお客様からチップが頂けるので副収入があるうれしい仕事でした。ただこれも夕方から朝までの夜勤の為、体調を崩し十三駅のホームで倒れかけた事もあり、学業との両立が厳しいので泣く泣く辞めました。これも半年程でした。

 次に始めたのが高校時代の友人の紹介で始めた喫茶店のアルバイトで駅前にあるテーブル席が3つとカウンターがある小さな喫茶店ですが、基本的に水出しから注文取り、注文品を作って、注文品出し、会計まで一人でするのですが、ここでレストランのアルバイト時代に培われたスキルが役に立ち重宝がられて大学卒業前まで2年半続けました。

 この喫茶店のオーナーであるマスターとママのトークが素晴らしく、ここでマスターやママのお客様との会話が私の口数の多さに更に磨きを掛けたのだと思います。この頃は喫茶店でのアルバイトをしながらその合間に他のアルバイトもしていました。

一番時給が良かったのが鉄工所のアルバイトです。

これも高校時代の友人の紹介で友人の親戚がやっている工場で時給1,000円(今となっては当たり前ですが、当時時給1,000円のアルバイトはほとんどありませんでした)は大変魅力的なアルバイトでした。仕事はエレベーターの安全装置の点検作業でした。

この頃の私の収入が月20万となり、貯金が100万円位出来たと記憶しています。

喫茶店員、鉄工所の工員をやりながらその合間に友人から単発のアルバイトの要請が入ると興味本位で色々なアルバイトをしました。

工場の年末の大掃除清掃員、駅前でのチラシ配り、大学生協の夜警(生協に夜泥棒が入るという事で招集されました。犯人は大学の近くに住む中学生だったと思います)、大学の学園祭では模擬店でハンバーガー屋やりんご飴屋をやりました。大学の近所のパン屋さんに交渉してバーガーのパンを別注交渉したり、リンゴを中央市場まで仕入に行ったり楽しい経験でした。その他には植木屋の手伝いや交通調査員等のアルバイトをしていました。一部の友人からは「ファイティングアルバイター西部」と呼ばれていました。

自分で貯めたお金で原付バイク(真っ赤なスズキのラブ・当時たしかマイケルジャクソンが宣伝していた)を買い、合宿で運転免許を取り、軽自動車(こちらも真っ赤なスズキのアルト)を43万で買いました。

装備が何もない全くのノーマル仕様の車で少しずつカスタマイズしていったら2年程で、大体50万掛かりました。

まず、カーステレオを付け(イルミネーションが光るカッコいいタイプ)、カークーラーを付け、ゴールドメッシュのアルミホイール(今はあまり見かけませんがこの頃はこれが流行っていました)にピレリーのタイヤを履かせて、ハンドルをモモタイプのレーシング仕様に変え、中は荷台、足元、ダッシュボードに人工芝を敷きました。

その後卒業前にいすゞの真っ赤なジェミニ(中古)に乗り換えました。

これは就活で知り合ったマツダに勤める大学の先輩が中古車のオークションで落としてくれて、総額でも100万はせずに買えました。その後すぐに社会人になったのでこの車はノーマルのまま廃車になるまで乗りました。

1986年3月  関西大学社会学部福祉学科卒業

1986年4月  繊維製品総合商社に入社

大学で社会福祉を学んだがゼミの教授からは実社会向きと勧められ、一般企業に就職する事にしました。(教授は私のファイティングアルバイターとしての実績の方に興味があった様です)

喫茶店での2年半の経験を活かし、喫茶&ブティックの経営者を目指して、まずはアパレルの修業が必要と思いアパレル会社の就活をして何とか繊維製品総合商社に就職が決まりましたが、配属されたのが「和装事業部」つまり「着物卸部門」でした。着物を産地やメーカーから仕入れて呉服店に卸す商社と言えば聞こえが良いですが、きもの問屋つまり「丁稚(でっち)」です。

直ぐに退職を考えたが「これも運命」、「石の上にも3年」と思い直し、暫く頑張ってみる覚悟を決め、「丁稚(でっち)」生活に突入しました。和装の問屋としては大きな方で沢山の先輩や同僚達と厳しいながらも結構楽しい日々でした。

入社した頃はまだバブルが残っていて、会社でのパーティーはディスコ(今のクラブ)を貸し切ってやったり、社員旅行でシンガポールに行ったりしました。

そんな丁稚生活においても、口数の多さと短期な性格のお陰で良く叱られました。

営業に配属されて、入社2年目に初めて自分の担当エリアをもらい、着物を売りに行ったり、イベント企画の商談に行くのですが、ある得意先の呉服屋の社長が弊社の悪いところを散々言いますので、辛抱しきれず

「じゃあもう来ません。」

と言って帰って来ましたら、当時の上司から

「いくら嫌な事を言われても、得意先は会社のお客様であって、君のお客様じゃない。勝手に取引を切ってくるな!」

と叱られましたが、相手の社長も大人げないと言って、後日私を連れてその店に行き、

「先日は西部が生意気な事を言って申し訳ありませんでした。」

と謝ってから、

「ただ、弊社に言いたいことがあるならこんな若い者に言わずに、私に言って下さい。いくらでも聞かせて頂きます。私はこの西部を育てないといけないので、ここでつぶされては困ります。」

とはっきり言う上司はとてもカッコ良かったです。得意先でも言うべきことはしっかり言う姿勢を見せてもらった貴重な経験でした。

 ある時は、弊社のミスで得意先に多大な迷惑を掛け、部長と朝の10時前からお店に行き、社長にお詫びしようとするのですが、話も聞いてもらえず、ずっと正座した状態で夕方まで待ち続け、見兼ねたお店の社員さんが常務を呼んでくれて、常務に話を聞いて頂き、社長に取りなして頂いて、7時間後にやっと許して頂いた事もありました。

 入社7年目に商品企画部に配属された頃が一番叱られ、成長させてもらった時期だと思います。

予算が大きな担当で一気に10倍位の予算になったので、個々のイベントや商談は把握できるのですが、全体像が把握できず会議で聞かれてもまともな返事が出来ず、適当に答えるとつじつまが合わず、しどろもどろになるので、

「適当な事を言うな」等と叱られるのですが、

暫くして聞かれる事も分かってきてちゃんと答えられるようになっても、答えられなかった人と一緒に、

「いいか西部分かったか。」

と私も叱られるのが当たり前の様になっていました。叱られてもケロッとしているので上司からすると叱りやすかったのかも知れませんが、

「カラスが鳴かない日はあっても、西部が叱られない日はない」と言われる位叱られました。

 しかし、当時良く叱ってくれた上司は私を叱ったあとの昼食では必ずわざわざ私の近くに来て、先ほど私を叱った事など無かった様に

「西部はゴルフはしないのか?それはダメだな。じゃあ麻雀はするのか?だったら次は会社で麻雀大会をしよう。」等と声を掛けてくれました。

この頃に私の不屈の精神が鍛えられたのだと思います。

2009年4月  経営者としての修業開始

46才の時に当時の社長から経営者としての「特別教育」を受けました。

営業では売上、粗利益、販促経費位を把握していれば良かったのですが、経営になると財務三表(貸借対照表、損益計算書、キャッシュフロー計算書)を総合的に見られるようにならなければなりませんが、その項目の多さでどこの数字を見れば何が分かるのかが全く分からず、「君は経営と営業の違いが分かってない」「君は経営のセンスが無いなあ」などと言われながらも社長が退社されるまで6年間鍛えて頂きました。

この時に経営において縮小均衡は難しく、常に改善・改革を繰り返し、効率を考慮した拡大策を持ってないとやがて会社は無くなってしまう事を学びました。この経験が大きな転換期だったと思います。

2016年4月  社長就任

会社の組織変更で「和装事業部」が分社化で和装の会社になっていたのですが、和装業界は毎年のように規模が小さくなり、合理化の為にM&Aで吸収した同業の商社との統合に向け、黒字化が絶対条件の厳しい状況で社長に就任。

赤字になると1年でも責任を取って社長を退任させられる様な状況なので、社長就任の内示を20~30分拒みましたが、泣く泣く受諾。

社長に就任後は和装事業の拡大路線を主張する私と親会社の役員の思いの違いからこの時はめちゃくちゃ怒られ、いじめられました。(注1:叱られたのではありません)

営業所の社員全員がいる前で罵声を浴びせられたり、会議では提出した書類を投げつけられたりしました。出張中だと知っていながら、今日中にこの資料をまとめて送れとか、週末の金曜日の夕方になると提出に時間が掛かるようなテーマのレポート提出を月曜日の朝までに送っておくようにとの指示があり、幹部が土日出勤して書類を作る日々が続きました。(注2:ドラマの様でした)

この時には理不尽な事も甘んじて受けるが、正しいと信じた自分の考えは変えない覚悟をしました。

そんな状況ですが、運が良いのか悪いのか、たまたま私が社長をしていた1年半は奇跡的に黒字化し、私が社長になった会社とM&Aで吸収した会社の統合が決まり、これを区切りとして、この会社を退社する事にしました。

2017年9月  31年6ヶ月お世話になった会社を退社

2017年10月 (株)グッドに専務取締役として入社

まるで私の退社を待ち構えていたようなタイミングで、(株)グッドの創業社長である杉本から

「30才台中心の息子達の世代が育つまでグッドの経営をして欲しい」
「ハーツはすごい、本物だから絶対大丈夫、まだまだ伸びる」

と半ば強引に引き抜かれ退社の翌日から(株)グッドに入社しました。

私はこれを転職ではなく、「拉致」だったと思っています。

注:社長の杉本は私が永年お世話になった会社の先輩でしたがこちらも色々あって2005年に退社して、(株)グッドを立ち上げた人です。

2018年3月  (株)グッドウエストを設立し、代表取締役に就任

元々扱っていた和装品とこれからの時代はネット販売も必要になるとの考えから、新たに㈱グッドの子会社として設立しました。

2020年4月  (株)グッドの代表取締役に就任

2019年の秋頃、「来期は西部に経営の全てを任せたい」と創業社長の杉本から相談され、2020年4月新型コロナウイルスの感染拡大と共に私の社長としてのスタートが切られました。

ここでも運の良さを発揮し、コロナによる行動制限が掛かる中で、イベントがキャンセルになった得意先も多くありましたが、開催してくれた会場では弊社は健康商材を扱っていたので、厳しい状況でしたが他の商品よりは販売は出来ました。

その結果業績は下がりましたが、コロナに感染するかもというプレッシャーに負けずに出張を続けてくれた営業社員の頑張りと、催事イベント用に商品を次々送り出さないと営業が止まってしまう事業の為リモートワークが出来ず交代で出勤してくれた内勤者のお陰で、最低限の売上が確保できた事と、雇用調整助成金や持続化給付金等の助成金のお陰で、現在まで黒字経営を続けさせてもらっています。

こぼれ話

個人情報編

 ※思い込みが強い箇所がありますので、信じなくて結構です(笑)

1962年8月  兵庫県西宮市で生まれる (寅年、獅子座、O型)

趣味はドライブと釣り(但し、船酔いするので陸からの釣りのみ)

音楽は中3の時からの中島みゆきさんのファンです。(約45年ですね・・長~い)

読書も大好きで一時は活字中毒の様に兎に角何かを読んでました。

経営者の著書、営業企画物、歴史物(宮城谷さんが好きです)等色々読みます。

コミック本も沢山読みます。中でも大谷博子さんが好きです。(高校生の時から「別冊マーガレット」で読んでました)

世の中の不思議・仕組みを考えるのが好きです

斎藤一人さんの教えには私の長年の疑問にたくさんの回答がありました。例えば、「人は死んだらどうなるのか?」「神様は本当にいるのか?」「幽霊は存在するのか?」「人は生まれ変わるのか?」「何のために生まれてくのか?」等の疑問に一人さんは「信じなくていいよ」と言いながらズバリ、腹にストンと落ちる話をしてくれています。

天国言葉も大好きです。私は昔から運が大変良いです。成績は良くないのに本番や試験では何故かうまくいきます。上司と喧嘩して、飛ばされても、誰かが更に良いポジションで拾ってくれます。不思議な事に何度もありました。困った時には必ず誰かが助けくれるのです。

斎藤一人さんのお話を参考にさせて頂くと、前世でかなり良い事をしたのか、今世でまだ重大なお役目があるのか、だとしたら導かれるように(株)グッドに入社し、セイバー鉱石と「ハーツ加工®」にたどり着いたのは、この2つをもっと世に知らしめて、困っている人たちを救う手助けをする事が私が今世に生まれてきたお役目なのか?などと勝手に思って、わくわくしながら日々を送っております。

長々と私のプロフィールというか回想録といか独り言の様な話にお付き合いくださり、ありがとうございました。

また、縁がありましたらどこかでお出合い出来るかもしれません。
その時を楽しみにしております。

                    感謝